愛知県の和牛に関する記録として、遠く戦国時代末期徳川家康の父広忠の頃すでに和牛が生産されていた証として、健康のすぐれなかった広忠が妻於大の勧めで蘇(乳製品)を食べ健康を回復したという記録があります。
また、350年前にはすでに和牛を放牧するなど、杉平牛(現在の新城市作手杉平)と銘打って、遠く四国まで移出し名声を博したという古老の言い伝えもあります(昭和29年「愛知の和牛」全国和牛登録協会愛知県支部発行より抜粋)。
これらが愛知県の和牛の本源とみられ、以後役牛として飼育されていましたが、昭和31年以後、農機の普及につれその必要性が交代する一方、牛肉需要の増大につれて肉用牛として県下に広がりました。
また、三河山間部では古くから和牛繁殖が盛んで、ここから生産される子牛が「三河子牛」と呼ばれていたこともあり、県内和牛生産も三河地区を中心としていました。こういった歴史的経過並びに地理的な条件をふまえ、行政機関とともに検討を重ねて「みかわ牛」と命名されました。
また、みかわ牛のルーツが徳川家とも縁が深いことから、そのマークには葵(あおい)の紋を使用しているのもそのためです。 |